Contents
- 1 羽地ダムのカルタで沖縄について知る!
- 2 所謂、カルタとは
- 3 羽地ダムのカルタたち
- 3.1 い: 威風満つ ロックフィルの羽地ダム
- 3.2 ゑ: 絵のような 里山つくった アーマンチュー
- 3.3 か: 嘉津宇岳 名護三山の 西の山
- 3.4 と: 陶芸の 粋を集めし 古我知焼
- 3.5 よ: 沃土の地 県下無双の 羽地米
- 3.6 き: 近世の 羽地改修 蔡温公
- 3.7 ひ: ピームイに 改決石碑 むら守り
- 3.8 せ: 清冽な 親川バーリ 泉湧く
- 3.9 さ: 祭祀の場 神アシャギに 祈り込め
- 3.10 名: 名護の海 羽地内海 浪静か
- 3.11 あ: あけみおに 言の葉託す 名護の夢
- 3.12 れ: 歴史知る 羽地大川 改修碑
- 3.13 え: 沿道の 紅白桜 春一番
- 3.14
- 3.15 ろ: ロマン満つ 屋我地・古宇利の 島と海
- 3.16 わ: 若人の ペンタアスロン 競いの華
- 3.17 く: 苦心作 双亀橋に 見る匠
羽地ダムのカルタで沖縄について知る!
みなさんこんにちは。
沖縄には数十のダムがあります。羽地ダムもその一つです。
そして、羽地ダムを特徴付ける点として、カルタがあります。堤体の通り両脇に埋め込まれたカルタには、沖縄のことが書かれてあります。これを読むだけでも、とても勉強になるので、このページを使って全てのカルタについて書いていこうと思います。
所謂、カルタとは
カルタはポルトガル語で、日本語風には「いろはかるた」と呼びます。漢字では骨牌、加留多、歌留多などと書きます。
やはりWikipediaの説明がとてもわかりやすくまとまっていますので、参考になさってください。
参考Wikipedia:
https://ja.wikipedia.org/wiki/かるた
随時、更新する予定といたします。
羽地ダムのカルタたち
い: 威風満つ ロックフィルの羽地ダム
羽地ダムは、羽地大川(流路延長約12.3キロメートル)の河口より約3.1キロメートルの位置に建設されたダムである。形式は土と岩で造られるロックフィルダムであり、高さ66.5メートルの堤体は威風に満ちる。洪水調節、既得取水の安定化及び河川環境保全などのための流量の確保、かんがい用水及び水道水の共有を目的とした多目的ダムであり、総貯水容量は19.800千立方メートルで県下第2位を誇る。
ゑ: 絵のような 里山つくった アーマンチュー
アーマンチューは、沖縄開闢(かいびゃく)伝説のアマミク・シニリクの二神のうち、女神のアマミク神が後世的に変容して巨人化したものであるといわれる。巨人アーマンチューがこの世のはじめに天地を開き、天を支え、土を選んで島を造ったという伝説が沖縄のあちこちに伝わっており、名護市内では川上、源河、豊原、屋部に足跡伝説が残っている。
か: 嘉津宇岳 名護三山の 西の山
嘉津宇岳(452メートル)は、名護市の西端に位置し、沖縄本島では国頭村の与那覇岳(503メートル)、本部町の八重岳(454メートル)に次ぐ高さを誇る。嘉津宇岳は、隣の安和岳や八重岳とともに、嘉津宇岳安和岳八重岳自然環境保全区域としてその保護が図られており、その基盤が古生代や中生代(約2億年前)の古い石灰岩から成るため、植物地理学上貴重な種類が多い。
と: 陶芸の 粋を集めし 古我知焼
古我知焼は、平田典通(1641年首里生まれ)によって開窯されたという説が有力である。小川が流れる古我知の地で、少なくとも1809年頃までは窯の火が燃えていたと考えられている。古我知焼の特徴は釉薬を布やワラでふく手法にあり、緑色や灰緑色の釉薬を使ったものが多い。陶土は近くで採れる粘着性の強い白粘土が用いられている。
よ: 沃土の地 県下無双の 羽地米
名護三山といわれる名護岳と多野岳にその源を発する羽地大川によって潤される沃土の地は羽地田袋(ターブックァ)と呼ばれ、古くから沖縄県下随一の米どころとして有名であった。米の種類も豊富である。
き: 近世の 羽地改修 蔡温公
蔡温(1682~1761年)は青年時代、中国に留学し風水地理学を学んだ。帰国後、政治家として非凡な才能を発揮した蔡温は、1728年に三司官に就任した。その後、風水地理学から治水論「順流真秘」を導き、羽地大川改修に活かし、羽地大川改修の大工事を実日数三ヶ月足らずの間にやり遂げた。特に土木行政、林政に功績がある賢人である。
ひ: ピームイに 改決石碑 むら守り
親川のピームイに立つ碑は1820年に再建されたもので、元の碑は1744年の建立である。碑文の内容は1735年に蔡温が行なった羽地大川改修工事の状況を記したものである。当時、水害に悩む米どころ羽地の安定化は琉球王府の重要課題であり、国家的な大土木工事であった。技術的には風水地理にもとづいて川の流れの順逆を正すことを基本とした。
せ: 清冽な 親川バーリ 泉湧く
親川集落の「神の庭」と称される拝所の東麓には、きわめて清冽な水が湧き出る泉があり、昔からこの泉を「親川(ウェーガー)」と呼んでいた。そして、この名をとって付近一帯を親川原(バーリ)と呼ぶようになったといわれている。現在の親川集落は南北に通る道路を境にして、西側を親川バーリ、東側を又バーリと称している。
さ: 祭祀の場 神アシャギに 祈り込め
アシャギとは、村々において神を招請して祭祀を行う場所で、沖縄本島では神アサギ、神サギともいう。語源は、家に向かって右側にあって客を歓待する建物をアシャギというように、神ヘアキー(飲食物)を差し上げる場所の意から、神アシャギといわれるようになったと考えられている。
名: 名護の海 羽地内海 浪静か
名護のまちには、名護湾、大浦湾、羽地内海という、三方に開けた美しい海がある。特に羽地内海は沖縄の瀬戸内海と呼ばれ、いつも浪が穏やかであり、その風景は絶佳である。
羽地五景の一つに「羽地湾の風光」があげられている。また、国設の特別鳥獣保護区が1.031ヘクタール、鳥獣保護区が3.280ヘクタールにわたって指定されている地域でもある。
あ: あけみおに 言の葉託す 名護の夢
「あけみお」は、夜明けの美しい静かな入り江にニライカナイからの豊穣をもたらす青々とした水の流れであり、また海外に広がり行く、発展を約束する可能性に向かって突き進む先取の精神を表した言葉である。21世紀に向けて、開けゆく無限の発展が「あけみおのまち・名護」の言葉に託されている。
れ: 歴史知る 羽地大川 改修碑
明治43年(1910)年の大洪水を機に、大正6(1917)年の羽地大川耕地整理組合結成、昭和9(1934)年の新たに羽地中部土地改良組合結成を経て、呉我に流れている河川を仲尾次の海に注ぐという難工事が実に20余年かけて取り行われた。昭和46(1971)年、事業に功績のあった者を顕彰して、羽地が一望できる川上公民館広場の高台に碑が建立された。
え: 沿道の 紅白桜 春一番
羽地大川に架橋された川上橋の上流数百メートルにわたり、一方の土手には桜樹が、また地方にはソウシジュが並んでいっぱいに植えられていた。春ともなると、桜の紅白とソウシジュの緑とが映じあって見事であったと羽地村誌に記されている。その景色は羽地五景の一つにあげられている。
ろ: ロマン満つ 屋我地・古宇利の 島と海
名護市から羽地内海を隔て本島と相対して屋我地島が浮かぶ。屋我地島は大昔、土地の大陥落があって離島になったという伝説がある。また、屋我地島の北方約2キロメートルに古宇利島が位置する。古宇利島には、昔、男と女が現れ、アダムとイブのように結ばれた二人の子孫が沖縄の島々に広がったという沖縄の人類発祥の地とする神話が残っている。
わ: 若人の ペンタアスロン 競いの華
羽地ダムの建設によってできた湖水を利用して、羽地大川改修を行なった蔡温がその技術的基本理念とした風水地理学の五行思想(木火土金水)にもとづき、自転車、カヌー、ランニング、パラグライダー、水泳の五種目競技=ペンタアスロンの開催が可能である。世界唯一の五種目競技に各国からアスリートが集まり、鉄人レースが繰り広げられる光景が思い浮かぶ。
く: 苦心作 双亀橋に 見る匠
蔡温が順流真秘の架橋真秘の項に記した橋。洪水に流されない強い形として亀の甲羅状の橋台を左右の岸につくることから、双亀橋と称される。当時蔡温が造った橋は残っていない。現在は、架橋真秘に記された図を忠実に再現した双亀橋がダム堤体直下流部に作られている。
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